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ゴルクムの聖殉教者    Sts. Martyres Gorcomienses     記念日 7月 10日


 オランダはもとドイツ帝国の一部で、それからスペインの領土となったが、その頃住民の一部はカルヴィンの異端に迷わされ、国の独立を計って反乱を起こした。これは政治上の争いでもあり、同時に宗教上の争いであったとも言えよう。何となれば叛軍の大部分はカルヴィン教徒であるのに、カトリック教徒はいずれも国王方であったからである。

 戦争の結果はカルヴィン派が勝利を得、その後長くカトリック側を圧迫した。否、この圧迫は、既に右の戦争中から始められ、カルヴィン派側の手中に帰した地方のカトリックで、棄教を肯じぬ者は少なからず殺戮された。有名なゴルクムの聖殉教者もその時の犠牲に他ならぬ。ゴルクムの聖殉教者と呼ばれるのは総数19人で、内11人はフランシスコ会員、他はドミニコ会員一人、ノベルト会員二人、アウグスチノ会員一人。世俗司祭4人という割であった。

 これらの人々はもちろん敵の意に従いさえすれば、生命を失うには及ばなかったのである。しかし彼等はあらゆる手段を以て棄教を迫られ、殊にカトリックの二大教義、御聖体の秘蹟に主イエズスの籠もりましますことと、教皇の首位権とを否定するように強要された時に、皆あくまでこれを拒んで、真理を擁護した為に殺されたのである。
 今その次第を物語れば、戦況は前に述べた通り、カルヴィン派の優勢裡に進められた。けれどもオランダはまだことごとくは異端化せず、カトリック信者もなお多数存在したし、住民の大部分がカトリックである町や村もない訳ではなかった。人口五千のゴルクム市もやはりそういう一つであった。
 この町は国王方の軍が極く少数で守備しているばかりであったから、敵はその虚に乗じて攻撃して来た。市民も必死に防戦したが、食料弾丸が欠乏したので長く支えることが出来なかった。それで必ず悪いようにはせぬとの敵将の言葉を信じて降伏したところ、入場するや彼は約束を破ってカトリック教徒を捕らえた。ある人々はそこですぐに殺され、その家宅財産を没収された。しかし司祭達は例外であった。まずフランシスコ会のニコラオという一修院長が入牢したのを始めとして、彼等は次々と獄に投ぜられたのである。
 その修院長は財宝の隠してある場所を言えと執拗に迫られた。けれども隠した宝などは一つもないのであるから、白状の仕様がない。すると敵はそれを強情で口を割らぬと思い、鞭打ちその他あらゆる拷問にかけた。修院長はあまりの苦痛に耐えかね、その場に悶絶してしまった。人々は彼が死んだものと思ったが、やがて息を吹き返したので、再び司祭達の牢内に下げた。他の司祭達も聖教を棄てよとさまざまに苦しめられた。
 その内に捕虜を釈放すべしとの布告が発せられた。けれども敵将はその命令に従わず、彼等をブリエレに送り、その途中も棄教を強いては虐待の限りを尽くし、食物すら満足に与えなかった。ために彼等は疲労の極に達し、そのまま今にも倒れて死ぬかと思われるほどであった。が、兎にも角にもブリエレに着くと、彼等はもう一度信仰を捨てるが否かを訊問され、ついに縛り首に行われることとなった。
 戦火に焼かれた一修道院の廃墟で、ゴルムクの殉教者達は相並んで絞殺された。時は夕方に近かったから、彼等の死体はそのまま晒しものにされたが、悪人達はその耳を切ったり手を切ったり、或いは斧で体をばらばらに打ち砕いたりして殉教者に凌辱を加えた。
 見るに見かねたあるカトリック信者は、番兵に金を掴ませて彼等の遺骸を葬らせようとした。すると兵士等は絞首台の下に一つの穴を掘り、殉教者の栄えある屍を無造作に埋めてしまった。
 このゴルクムの殉教者が崇敬されるようになったのは、それから間もない事であった。その仮の墓は開かれて遺骸はブリュッセルに移された。そして1866年等しく聖人の列に加えられる光栄をになったのである。

教訓

 御聖体にイエズスの籠もり在すこと、及び教皇の首位権に対する信仰はカトリック教の基礎的真理である。これ無くしては聖会は一日も立っていかない。それ故教敵はややもすればこの二教義に攻撃の鉾先を向けたがる。ゴルクムの聖殉教者達はその信仰を守り通す為に生命を献げた。我等も御聖体の秘蹟を深く尊敬し、しばしば教皇の為に祈ろう。そうすれば我等の信仰はいよいよ堅固になり、死しては天国の永福を恵まれるに相違ない。